ピアノ曲「FURUSATO」楽譜
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名大作曲同好会「第1回 ピアノコンサート」の演奏予定曲でしたが、ピアノストの降板により演奏はされませんでした。 誰もが知る唱歌「ふるさと」の編曲企画シリーズ。 参考音源つきです。 無断転載や再頒布は禁止とさせていただきます。 FURUSATO for Piano 編曲:榊山大亮
ピアノ曲「FURUSATO」楽譜
名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)
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名大作曲同好会「第1回 ピアノコンサート」の演奏予定曲でしたが、ピアノストの降板により演奏はされませんでした。
誰もが知る唱歌「ふるさと」の編曲企画シリーズ。
参考音源つきです。
無断転載や再頒布は禁止とさせていただきます。
FURUSATO
for Piano
編曲:榊山大亮
「FURUSATO」 というメディア
近年日本は激甚な災害に数多く見舞われてきた。 東日本大震災、 熊本地震、 西日本豪雨その他である。 そしてその都度必ず歌われる曲の代表として 「ふるさと」 は 我々の直ぐ側に置かれてると言えよう。 しかしそのに妙な違和感を覚えるのは私だけだろうか。 「うさぎを追ったり」 「小鮒を釣ったり」 したことのないものは そこに描かれる 「ふるさと」 を果たして郷愁という感覚を持って 迎えられるのだろうか。 あるいは 「大都会の摩天楼」 がベビーベッドだった者にとって その 「ふるさと」 は郷愁ですらないのではないのか。 この違和感の正体は、 里山、 小川などに代表される 「日本の原風景」 をメディア化し、 ステレオタイプな紋切り型に押し込めて認知偶像として 一方的に押し付けられるものへと変化していることであろう。 「ふるさと」 ですら第三者に押し付けられ 懐かしいだろ?胸に響くだろ?と迫られるさまは まったくもって狂気にほかならない。 このアレンジを通じて私はそのような狂気のメディアに 慄き、 あるいは憤懣やるかたない思いを表現した。 「ふるさと」 ではなく 「FURUSATO」 に 強い憤りとともに、 本来胸に去来するはずの 各々の 「ふるさと」 を思い出し、 あるいは獲得すべくこの曲は問題を提起するのである。 それはまさに 「ふるさとの独立」 と言えるものではないだろうか。 榊山 大亮